第48回:力無き正義は無意味
掲載日:2015年7月27日
執筆者:株式会社スクウェイブ
社長室
成沢 恭子
久しぶりにこのコーナーに投稿させていただく。現在、世間を賑わせている安保関連法案について、私なりの見解を述べたい。始めに断わっておくが、私はどこの政党や宗教団体にも属していない、ごく普通の一般市民である。
先日、衆議院において自民・公明両党の賛成で安保関連法案が可決された。 野党が抗議することは想定内であったが、このニュース映像を見て呆れ果ててしまった。イイ年した大人が何してるんだか…(ページ一番下)出典:読売新聞社
確かに、単なるパフォーマンスとして見る分には面白い。メディアも大々的に報道している。憲法学者などの有識者まで担ぎ出してきて、この法案は違憲だと叫び、もうとにかく必死である。一連の報道を見た人の中には、「安倍政権は平和を壊す法案を強行採決して酷い」などと思ってしまうことだろう。まさに野党とメディアの狙いどおりだ。
だが、ちょっと待ってほしい。
私は「戦争反対」と叫ぶ方々に言いたい。異を唱える相手を間違えている!
まずは中国に「戦争反対」と言うべきでしょう!?
「自民党感じ悪いよね」等の幼稚なプラカードを掲げてシュプレヒコールをあげている場合じゃないでしょう!?
何を間違っても、どう転んでも、この先、日本が戦争を自ら始める事態になるはずがない。道義上の問題以前に、戦争は費用対効果が低すぎる。それがわからない程、現代の日本人はバカじゃない。
ただし、侵略を受ける可能性はある。侵略する気満々の国が近くにある。だからこそ、十分に備える必要があるのだ。個別的自衛権だけでも大丈夫と主張する人がいるが、個別的自衛権を突き詰めるとスイスのように独自に強力な軍隊を持たざるを得なくなる。これは現在の日本には困難な選択肢であろう。となれば、自国を守るために、憲法でも何でもどんどん変えて集団的自衛権を持つべきだ。国民の命と憲法とどちらが大切なのだ?と言いたい。安倍政権が支持率を下げてまで推し進めようとしている集団的自衛権・安保政策は、大筋で正しい、と私は思っている。日本の備えがしっかりしている程、それが抑止力になって「戦争」を避けることができるのだ。反対派の方々は、日本が侵略を受けた場合、どう対応しようと考えているのか聞いてみたい。まさか、話し合いで何とかなるとでも思っているのか?まさか、憲法9条があれば敵も攻めてこないとでも思っているのか?私は、「法の支配に基づく正義」という価値観を共有する日米豪などが、相互扶助の関係を構築することで敵の攻撃意欲を抑制することができると思う。残念ながら反対派の方々は、「日本を弱体化させ、最終的に滅ぼす」という目標を掲げて行動しているようにしか見えない。同じ日本人として、悲しい限りである。
某政党にいたっては「集団的自衛権=徴兵制復活」を連想させる、集団的自衛権反対のポスターを作成して世論を誘導しようとしているが、国民を愚弄しているとしか思えない。憲法18条では、身体的自由権である奴隷的拘束・苦役からの自由について規定している。すなわち、徴兵制を禁止しているのだ(通説・政府見解である)。それこそ改憲しない限り徴兵制の復活はあり得ない。そして自民党の9条改憲論者ですら18条を変えたいとは全く主張していない。安保法案が通ったところで徴兵制は復活しない。
念のためはっきり言っておくが、私は戦争することについては、絶対反対である。当然だ。
ただし、個人的には、日本がピンチの際に友好国に助っ人を頼む可能性があるのなら、友好国が危険に晒された場合は手を差し伸べるべきだと思っている。それでこそ対等な関係と言えるだろう。「私はアナタを守ってあげられないけど、アナタは私を守ってください」というのは虫が良すぎる。反対している方は、日本人が傷つくのは許さないが、他国の人はどうなっても構わないと言っているに等しい。集団的自衛権は戦争や徴兵制をもたらすものではない。主権国家として当然の権利・義務なのである。
哲学者パスカルの言葉で「Justice without force is powerless; force without justice is tyrannical.(力なき正義は無力であり、正義なき力は圧制である。)」というのがある。日本がいくら正しい心を持っていても、力が無くては無意味なのである。戦後70年、日本はそろそろ法の支配に基づく正義を守るため「正しい力」を持ってほしいと心から願っている。
最後に少しだけ宣伝を。
当社は、IT部門が「正しい力」を持てるようになるためのサービスを展開中である。 ITコストの妥当性・正当性を経営陣に証明したい場合はぜひご連絡いただきたい。